赤松 則村(あかまつ のりむら、建治3年(1277年) - 正平5年/観応元年1月11日(1350年2月18日))は、日本の南北朝時代の武将である。法名は円心。父は赤松茂則。子に赤松範資、赤松貞範、赤松則祐、赤松氏範、赤松氏康らがいる。赤松氏4代当主。
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後醍醐天皇が鎌倉幕府打倒を掲げて挙兵した元弘の乱において、元弘3年(1333年)、後醍醐の皇子護良親王の令旨を受けて反幕府勢力として挙兵する。初め、一族の高田氏が内通しようとしたため兵を動かし、西条山城にて戦し、その菩提寺である了宅庵にて自害に追い込む。その後、六波羅探題の命を受けた備前(岡山県)の守護加持氏が兵を出すが、その先発隊である伊東氏と三石城で戦いその盟主である伊藤惟群を服従させ、これを西国幕府軍の備えとして三石城に残し東上を開始した。
この後円心は室山に陣を築き、諸豪族の参集を待った。しばらくの後、白川郷・山田村小部郷・石南花山で経て、布引谷沿いに南に向かい、あらかじめ長男範資に築かせておいた摩耶山城へ入る。元弘3年(1333年)2月11日には、早くも六波羅軍2万が攻め寄せてくるが、赤松軍得意の野伏り戦を展開し、これを撃退した。
六波羅攻略
円心は勢いを買って久々知に陣取り、24日には酒部に進出。3月10日に六波羅軍1万が瀬川に布陣した。その日の夜、円心の陣に尼崎から上陸した四国の小笠原勢が奇襲をかけ円心は僅か50騎で敵を突破し久々知に帰陣した。そこで兵の集合を待ち、則祐の進言を聞き入れ3,000騎を率いて敵陣に夜襲をかけ敵は敗走した。ここでまた、則祐が追撃案を出し12日には山崎に侵攻。京都淀・赤井・西岡付近に放火を敢行した。これに対して六波羅軍は、高橋・隅田両検断に2万を預け出陣させた。これを知った円心は、軍を二つに分け一方を久我縄手へ差し向け、自らは六波羅軍が陣取る桂へ進軍した。両軍は桂川を挟んで対峙したが、この時川は増水しとても渡れそうになかったが則祐が先陣を切り押し渡り敵を蹴散らした。そのまま大宮・猪熊・堀川・油小路に放火しつつ六波羅を目指した。危機感を覚えたのか六波羅は、時の天皇光厳帝を六波羅に迎え六波羅を仮御所とした。また、新手の河野・陶山をはじめ兵を大量に投入した。
これまで、破竹の進撃をしていた円心軍は総崩れとなった。円心と則祐は、急ぎ男山まで逃れたがここで円心は自刃すると従者に告げたと言われている。しかし円心は、自分の旗印である左三つ巴の旗の上に大龍を描き八万菩薩のお告げとし再度京へ攻め込むと告げたのである。
その後、山崎の戦で快勝したが次の洛中戦で敗北した。それから円心はしばらく山崎の陣に居たが、名越高家・足利高氏(尊氏)の出陣を知ると迎撃に出て名越高家を佐用頼家が討ち取り戦は終わった。この戦の後高氏は領地である丹波篠村へ向かい兵を集め2万3,000騎で挙兵した。勢いを増した帝方の諸将は京を包囲。これを見た六波羅探題は鎌倉へ落ち延び、六波羅は陥落した。一方関東では新田義貞が奮戦して鎌倉を落とし、元弘の乱は終結した。
建武の新政下の円心
鎌倉幕府滅亡後の建武の新政では、それまでの播磨国守護職を没収されるなど優遇されなかった事が知られている。これは朝廷内の権力争いの結果、護良親王派が三位局(阿野廉子)派に敗れた結果といわれる。同じく護良派といわれる楠木正成も(後世においては多大な名声を得たが)当時は戦功に比べ不遇であった。逆に三位局派の名和長年、千種忠顕等は新政の恩賞で厚く遇されたという。また、ともに倒幕戦争を戦った護良親王が建武元年(1334年)に失脚すると則村の新政における立場は失われた。怒った円心は、赤松へ帰っている。
白旗城合戦
建武2年(1335年)に足利尊氏が中前代の乱を平定する軍に、則村は次男貞範を従軍させた。その平定後鎌倉で建武政権から離反して京都に進攻した尊氏が、翌年、北畠顕家、新田義貞、楠木正成らの宮方に敗れて九州へ逃れると、足利方に味方して、尊氏から改めて播磨国守護職を授けられた。
以後は足利方として戦い、京都方面から進撃してきた新田義貞を総大将とする尊氏討伐軍6万騎を播磨国赤松の白旗城(兵庫県赤穂郡上郡町)で迎え撃った。これに対し、丹波国氷上郡の久下時重は、仁木頼章の一手も加える形で、氷上の高山寺城から加古川沿いに下ってきては新田軍の補給路を絶えず脅かした。また、白旗城は、地理的に北方の美作、但馬方面からいくらでも支援が可能という強みも持ち合わせていた。そのため、則村以下2千の兵が立て籠る白旗城を義貞は圧倒的な兵力を持ちながら攻めあぐね、50日以上釘付けにされた。
その間、尊氏は多々良浜の戦いで菊池武敏を破り、九州を制圧。西国の武士を軒並み味方に加えながら、軍勢を海と陸の二手に分け、東上を開始した。足利軍東上の知らせに新田軍は撤退を開始するが、士気は極端に低下し、寝返りや足利軍への投降者が続出した。さらに、白旗城を出てきた赤松軍の追撃も受け、総崩れとなって兵庫まで逃げ延びた。この後、尊氏は湊川の戦いで勝利した。
晩年
足利尊氏と弟の足利直義が対立した観応の擾乱においても尊氏に従い、直義方についた尊氏の庶子で直義の養子の足利直冬を追討するため軍を編成している最中に京都で急死した。
法名は法雲寺月潭円心。 墓所は京都市東区の東山建仁寺の塔頭寺院久昌院。供養塔が兵庫県赤穂郡上郡町の金華山法雲寺(法雲昌国禅寺)にある。 また、木像が兵庫県赤穂郡上郡町の宝林寺にある。
楠木正成との関係
円心は、楠木正成の親類にあたる。円心には、出家した円光という弟がいた。この円光のもと正成の姉が嫁いでおり、正成から見れば円心は義理の兄弟ということになる。
赤松範資
赤松 範資(あかまつ のりすけ、? ? 1351年5月4日(正平6年/観応2年4月8日))は、南北朝時代の大名。赤松則村の嫡男。官位は信濃守。左衛門尉。
1333年、父の則村が鎌倉幕府討幕のために挙兵したとき、これに従って京都での戦いで武功を挙げた。ところが、その後の後醍醐天皇の建武の新政で赤松氏が行賞で冷遇されたため、父と共に足利尊氏に与し、朝廷軍と各地で戦って武功を挙げた。それにより、室町幕府成立後、尊氏から摂津国守護に任じられた。1350年、父・則村の死により家督を継いで当主となる。同年、尊氏の弟・足利直義と高師直の対立である観応の擾乱では、尊氏・師直側に与して直義軍と戦っている。
1351年、京都堀川七条の自邸にて急死。後を弟の赤松則祐が継いだ。法号は世範。ちなみに範資の系統は、七条氏として存続している。この家系は戦国時代の1496年に赤松義村が惣領家に復帰し、以後関ヶ原の戦いの赤松則英、斎村政広まで4代続く事になる。また、傍流の赤松氏満の家系が江戸時代に大身旗本として幕末まで存続した。
則村の弟という説もあり、また、義村の代まで則祐の家系と交互に家督を相続したという説もある。
赤松則祐
赤松 則祐(あかまつ そくゆう/のりすけ)、正和3年(1314年) - 応安4年/建徳2年11月29日(1372年1月13日))は、鎌倉時代末期から南北朝時代の武将である。赤松則村(円心)の3男。子に赤松義房、赤松義則、赤松満則、赤松義祐、赤松持則など、娘は細川頼元の室。兄弟に赤松範資、赤松貞範、赤松氏範、赤松氏康がいる。
倒幕戦争時
1331年、後醍醐天皇が鎌倉幕府打倒を掲げ挙兵する(元弘の乱)。則祐は比叡山延暦寺に入っており、その縁によって後醍醐天皇の皇子で天台座主であった護良親王に付き従い、熊野などで転戦する。1333年、護良親王の使者として倒幕の令旨を父・円心に届け、赤松氏は播磨国で挙兵する。その後、父に従って東上し、京都の六波羅探題を攻撃する。
則祐には武勇伝が多く、『太平記』にもいくつか記されている。熊野や十津川では、護良親王を守って善戦。父・円心に従っての高田兵庫輔頼重との戦いにおいては、後方撹乱を実行し、西条山城に突入して勝敗を決めた。また、洛中での桂川の戦いでは、増水した桂川に単騎で踊りこみ、敵陣一番乗りを果たした。また、京において相撲人としての武勇伝があったという(『梅松論』)。
南北朝時代
建武政権下において、足利尊氏が中先代の乱平定後に後醍醐天皇に反旗を翻す。後醍醐天皇方の北畠顕家や楠木正成に敗れた尊氏が円心を頼って播磨に逃れると、円心は九州落ちと光厳上皇の院宣をもらうことを進言した。尊氏はこれを飲み、九州へ落ち延びた。赤松氏の役目は後醍醐天皇方を播磨で足止めし、尊氏の再起の時間を稼ぐことで、円心は播磨の広範囲に戦線を展開、則祐は城山城(感状山城)で第二戦線の大将を命じられる。後醍醐天皇方によって書写坂本城を中心とする第一戦線が崩され、第二戦線の支城も次々に陥落されるなか、則祐は奮戦し城山城を守り抜く。白旗城下で激戦が展開されている最中に九州に落ちていた尊氏のところへ訪れ、東上を促す。
1350年に父・円心が没し、長兄・範資が総領(当主)となるが、1351年に範資が急死、則祐が総領となる。1355年には、松田氏に代わって備前守護に任じられた。1361年、幕府執事から失脚した細川清氏が南朝に属して楠木正儀らと京都を占領、則祐は幼い足利義満を播磨国の白旗城へ避難させた。初期の室町幕府において2代将軍足利義詮や管領の細川頼之を補佐した。
茶人としても知られ茶器に造詣が深かった。佐々木道誉とともに、数寄大名元祖といわれる。